ノルデスチ・ブラジルの苦悩について

This post was written by chiemin on August 6, 2016

サッカー、サンバ、コパカバーナビーチと、北にはアマゾン、南にはイグアスの滝・・・・日本においてブラジルは明るく、楽しい情熱の国、というイメージが浸透しているのではないか。南米大陸の大国ブラジルは、その国土に抱く豊かな気候の恩恵をうけ、多様な自然が存在するだけでなく、世界の様々な国からの移民(日本を含む)が織りなす豊かで多様な文化が魅力的な国である。たとえばリオ・デ・ジャネイロは世界的に人気のある観光地として有名だが、特異な地形を背に、大西洋に面するターコイズブルーのビーチでは、アフリカ由来のリズムをベースにしたBPM(ブラジリアン・ポピュラー・ミュージック、50年代から60年代に流行ったボサノバ(*注1)もその傍流の一つ)が心地よく流れ、カラフルなマイクロビキニをまとった美しい人たちが闊歩する様子をココナツジュースでも飲みながら眺めれば、この国は底抜けに明るく、希望にあふれる国であると、観光客の目には映る。

明るく楽天的なイメージが1つの「顔」である一方で、しかし、暗く辛い苦闘の歴史にも、ブラジルは事足りない。波乱万丈の歴史を一番に代表してきた地方として、私はブラジル北東部(ここではブラジルにならい北東部をノルデスチと呼ぶことにする)に大変興味を持っており、この記事では北東部における苦悩の歴史を(1)奴隷制と、(2)移民に分けお伝えする。

*注1:ボサノバは日本においておしゃれな人の聞く、心地よいBGMとして認識されているが、実はブラジルではあまり知られていない。ボサノバはおそらく50年代から70年代くらいにかけて流行ったジャンルの一つで、当時のアメリカ人観光客から絶大な人気を誇り、その影響でブラジル外において今でも知られることになっているのだ。中でもGarota de Ipanemaは誰もが耳にしたことがあると思うが、これは60年代にアメリカで大ヒットしたボサノバだ。現在ブラジルにおいてボサノバの認知度はとても低く、BPMを形作った一つのサブジャンルとしては「聞いたことある」という程度で、一つのジャンルとして認識されたり、“ボサノバシンガー”のようなミュージシャンがいるということはない。

Nordeste Map

Photo Credit: Geoconceição

辛い歴史

まずはノルデスチがどのあたりにあり、どのような歴史をたどってきたかを簡単に見ていく。ノルデスチはブラジル北東部、つまり地図の右上部分のアフリカに向けてとがった部分辺りを占め、9つの州(地図参照)からなる。まず初めに注目したいのはノルデスチからアフリカの距離の近さであり、たとえばPernambuco州の州都Recife(レシフェ)からアフリカのリベリアまでは3000Km程度しか離れておらず、これは札幌から那覇までの距離と比較してもらうと、その近さがわかってもらえるかもしれない。この近さというのは大航海時代から植民地時代、そのあり方を決定するとても重要なファクターとなるということは後で説明する。

Africa-Brasil

Source: Google Maps

ブラジルの発見についてまずはみていくと、日本の学生であればだれもがバスコ・デ・ガマという名前を聞いたことがあると思うが、彼は大航海時代のポルトガル人探検家で、世界で初めてヨーロッパからインドへの航海を成功させた有名人である。彼のように新航路の発見を試みた冒険野郎が当時たくさんおり、そのうちの一人、Pedro Álvares Cabral(カブラル)がブラジルを「偶然」発見した冒険家だということになっている(*注2)。ブラジルの発見自体はBahia州サルバドールあたりへカブラルが到着したことから始まるのだが、そのすぐ北に位置するノルデスチは、発見後、開拓のプロセスにおいて早くから探検・植民が行われ、重要な地域になっていった。

*注2:「ブラジルを偶然、発見したことになっている」と書いたのは、実はそうではないという話があるからだ。というのも、カブラルもコロンブス同様、インドに航海しようとして、間違えてブラジルを発見したことになっているのだが、ポルトガルは、オフィシャルなブラジル発見の1500年によりも前におそらく南米大陸に到達しており、その豊かさを知っていたにもかかわらず、それをスペインに知られないことで当時の領土分配のネゴシエーションを有利に進めようという魂胆があった、と考えられているのだ。その根拠の一つに、まだポルトガルがブラジルを発見していない1494年にトルデシリャスの合意という、世界の植民地領土の分割をきめる合意がスペインとポルトガル間で行われているのだが、まだ南アメリカ大陸の存在をよくわかっていないはずのポルトガルは、1493年の仮合意からその分割ラインを西へ動かす調整をしている。ブラジルの存在を知らず、南アメリカ大陸の西側は何もないと思われていたのであれば、なぜ分割ラインを動かす必要があったのか?これよりおそらくポルトガルはすでに南米大陸についてどの程度の広さおよび豊かさが存在するかスペインよりもよくわかっていたうえで、トボけたふりをしてアメリカ大陸の領土をまんまと拡大した、ということが考えられている。

 

ポルトガル植民地の正式な設立は1532年になるのだが、はじめのうちブラジルの実質の公用語はTupi Guarani(トゥピ・グアラニー。パラグアイで話されるグアラニーと同系統の先住民言語)であり、ポルトガル語については、その後黒人奴隷が増えたころにやっと一般的になったといわれる。

ブラジルにおいてのアフリカからの奴隷は早くも発見直後の1501年から導入されたといわれるのだが、特に16世紀後半から盛り上がりを見せたサトウキビ栽培と比例して、奴隷貿易も盛り上がりをみせた。他の植民地の奴隷貿易の例にもれず、ブラジルの奴隷貿易も非人道的極まりないものだったのだが、特に目を引くのは、16世紀から奴隷制廃止の19世紀までに起こった南北アメリカ大陸の全奴隷貿易のうち、40%程度をブラジルへの奴隷貿易が占めたという点である。これは初めに述べたアフリカへの物理的距離の近さが関係する。つまり、アフリカからの物理的距離の近さから、ブラジルへの奴隷貿易は航海コストが低い=奴隷の価格が安かったため、ブラジルの農園主たちは奴隷を購入すると、農園にて酷使し、1-2年たってそれら奴隷が死亡するころにまた新たな奴隷を購入する、という運営の仕方をしていた。ひどい話だが、情報源によっては1年程度奴隷を働かせると、すでにその奴隷の購入費分のもとがとれたといわれるほど、当時のサトウキビ経済事情が良かったのだ。

比較すると興味深いのは、イギリス植民地であった北アメリカにおいては、アフリカの奴隷市場(例えばアンゴラの首都、ルアンダ)からの物理的距離のため奴隷一人当たりの購入コストが高かったため、農園主は通常、女性および男性の奴隷を導入し、長く生きてもらい、かつ家族を持ってもらうことによって奴隷のベースをふやす、というやり方が用いられたそうだ。その結果イギリス植民地(北米だけでなく他の国々たとえばジャマイカ、トリニダード、ガイアナ、ベリースその他小さい島国たちも合わせ)はブラジル奴隷の5分の1以下の人数しか奴隷を導入していない。

ship

奴隷船の骨組み。アフロ・ブラジルの文化や歴史について触れるには、サンパウロのMuseu Afrobrasilが最適だ。(Photo Credit:Museu Afrobrasil

このようなひどい状況のなか、ノルデスチでは大量の奴隷がサトウキビ栽培にかかわるのだが、あまりの状況の悪さから、反乱や脱走が頻繁に起こることになる。たとえば、ノルデスチの州の一つAlagoasにUnião dos Palmaresという村が存在する。もともと脱走奴隷によって設立された村なのだが、Quilomboと呼ばれる他にもある脱走奴隷コミュニティのなかでも、Zumbiというリーダーに率いられたこのコミュニティは17世紀、3万人もの人口を誇っていたといわれ、周辺のポルトガル人領主から大変恐れられるようになった。長い武装闘争および停戦のネゴシエーションなどを経たあと、しかし、最終的にはコミュニティ内部の裏切りにあい彼はポルトガル領主たちに殺害されることになる。脱走奴隷の王国としてのQuilomboはここで滅びることとなるが、通常の村としてのQuilomboは国中にいまも存在しており、彼らは先住民コミュニティと似た扱い(文化保存や、教育機会のサポートなど)をうけている。

zumbi

(Photo Credit:Wikipedia)11月2日はアフロブラジリアンの日が祝われる。Zumbiはアフロブラジリアンの苦闘と勇気、そして自由のシンボルとして尊敬されるフィギュアだ。

現在のPalmaresは見た目特に変哲のない田舎町となっているが、どうやらこのところはかなり暴力がはびこり危険になってきているようなので、訪問する際は注意したい。これはブラジルでも最も貧しく、腐敗しているといわれるAlagoas州全体にもいえることだ

palmares

(Palmares村の入り口にある、Zumbiの像。これはハイウェイの横にあるので目立つ。Photo Credit:http://www.onordeste.com/portal/uniao-dos-palmares-alagoas/)

 

ブラジルでの奴隷貿易は1888年の5月に終わりを迎えることになるが、この背景にはイギリスによる奴隷制廃止へのプレッシャーがあった。イギリスは1833年に自国の植民地での奴隷制を廃止したのち、ブラジルを含む他国にも奴隷制廃止を要求する。ブラジル経済に大きな富をもたらし、なくてはならない存在であった奴隷制ではあったが、当時ブラジルはイギリスに対し、貿易および投資分野でかなりの依存状況にあったこともあり、しかたなく、ブラジルはオフィシャルな奴隷制の廃止へ踏み切った。

しかしながら、この奴隷制廃止も‘オフィシャル’な廃止にとどまった。というのも、今もノルデスチの経済中心地であるレシフェの港における奴隷貿易は消えたものの、その取引は水面下へと消え、輸入の港は現在のPorto de Galinhas(ポルト・デ・ガリーニャス)へと移ることとなったのだ。当時の密輸のやり方はまず、奴隷船が港につくと、大農園主たちには「ニワトリ船が到着しました」というメッセージが送られ、そしてニワトリ貿易という名目の元、売買交渉が行われた。そしてそこから今の町の名前、Porto de Galinhas=ニワトリの港、という名前が付けられた。

porto

Photo Credit:ポルト・デ・ガリーニャス観光ウェブサイト)かなり観光地化がされているものの、そのサンゴ礁と、引き潮時に現れる自然のプールはなかなか魅力的だ。

 

サンパウロにおけるノルデスチーノ

ノルデスチではこのように、植民地時代よりごく少数の農園主と奴隷という構造で社会が出来上がってきた。奴隷制の廃止後も奴隷というステータスが労働者へとすり替えられただけで、社会の仕組みと貧困、およびアフリカ系市民および労働者層に対するほとんど無意識の差別は、現在まで変わらず続いてきているといわれる。実際、ブラジルにおいて人種や社会階級差別問題については最近まで、議論されることすらなかった。もちろん、20世紀のかなりの期間を独裁体制で送ることとなったので無理はないが、1990年代になって初めて、カルドーゾ元大統領によって人種・社会階級差別に関する話合いが始まり、それを引き継いだルラ元大統領のもと、2002年、はれて大学におけるアファーマティブアクションへの合意がなされている。

ルラ元大統領も、ところで、ノルデスチの出身だ。Pernambuco州のCaetés(*注3)出身の貧しい家庭の出身である彼は母親に連れられ、7歳の時にサンパウロへと国内移民しているのだが、これはノルデスチの人々にとってはとても典型的なストーリーである。というのも1950年代にブラジルにて工業化が進むと、特にサンパウロ州(とやや小規模でリオ・デ・ジャネイロ州にも)にて労働者の需要が盛増えることに伴い、ノルデスチから大量の労働者が移り住むことになったのだ。

今もサンパウロの工業を支える背骨としてのノルデスチーノ(ノルデスチ出身者)であるのだが、残念ながら、その経済発展への貢献にもかかわらず、彼らはサンパウロにてあからさまな差別か、もしそうでなくても、見下されるおよび無視される対象である。彼らにとって、そのため、ノルデスチーノでサンパウロ貧困層に属すルラ元大統領、まさに彼らの声を代弁できる初めての政治家が当選したこと、そして労働者の権利や貧困層への政策を掲げたPartido dos Trabalhadores(=労働者党で一般にPTと呼ばれる。最近弾劾されたヂルマ・ルセフ前大統領もこの党出身)が国を治めたという事実は、このブラジルの歴史的・社会的背景からすると、涙が出るほど素晴らしい快挙であり、歴史的出来事なのだ。

lula

(Photo Credit:Blog do Neto)ルラ大統領はノルデスチーノたちに絶大な人気を誇る。もともと金属労働者組合のリーダーであった彼の政治手腕は‘プラグマティズム’である。アイデオロジーや政治派閥よりも、目標達成へ必要な手段は何なのか、というところに重きをおき、必要な手段は何でも採用する、そういう政治家だった。

現在は残念ながら、汚職関連(Lava Jato事件とよばれる。ちなみにLava Jatoは洗車屋さんのこと)で関係者が次々と逮捕され、ここ何日かでルラにもついに法の手が届きそうである。ヂルマ大統領の弾劾へと発展した現在の政治的乱れはまさに、伝統的なエリート支配層vs労働者階級の対立とオーバーラップする。ブラジル人の若者などとこれについて話すと、国民それぞれが政治的ポジションをはっきりともっており、そしてその対立の激しさが増してきているのが、日々感じられる。

*注3:Pernambuco州は山がちなのだが、どのところどころに風力発電の風力タービンが立ち並んでおり、その田舎的風景とのコントラストが絶妙である。ルラ出身地Caetésの周りにもたくさんのタービンが立ち並び、町自体も元々の「ルラの出身地」という宣伝文句から、「風力エナジーの町」へと最近ブランド替えしている。

caete

ウインドタービンが立ち並んで、こんな感じだ。(Photo Credit: http://www.leiaja.com/noticias/2015/09/29/complexo-eolico-do-agreste-de-pe-em-terras-alugadas/)

また、ルラ元大統領と対照的ではありつつも、ノルデスチのもう一つの顔として歴史に名を残したのは、Fernando Collor de Mello(コロル)元大統領である。彼は元々Alagoas州の大富豪の家族の出身であり、まずは州知事として、そしてのちの1990年から92年まではルラに競り勝ち、歴史上最も若い(41歳)大統領として「ブラジルに近代化をもたらす」政治を行おうということで当選する。残念ながらまずは当時のハイパーインフレーションを止めるための政策としてコロルプランを始めるが失敗、そして92年には大掛かりな汚職が発覚し、辞任した。汚職については実の兄弟の告発で発覚したのだが、当時の彼の大統領選キャンメーンマネジャのP.C. Fariasという人物とともに、権力とコネクションを使った不正な資金調達が告発されたのであった。

現在はAlagoas州上院議員として活躍しているが、彼の腐敗した政治とエリート階級の権力(例えば、メディア操作、恐喝、暴力)を駆使した政治はまさに、Alagoas州およびノルデスチの歴史の一側面を描写するように思える。

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(Photo Credit:コロルウェブサイト)フェルナンド・コロルはとにかくハンサムなのだ。90年代大統領選さなかにもヨーロッパにバカンスへ行くなど、政治内容はともあれ、常におしゃれで、あか抜けた存在、まさに、「ブラジルに近代化をもたらす」というイメージにぴったりであった。

簡単にではあるが、ノルデスチが歴史上、虐げられた影の存在としてきたこと、そしてその遺産が現在も、大都市において、そして政治において引き続き継がれていることを見ていただいた。これらの歴史をサラッと見たうえで、それでは、こちらの記事において、「あら削りだけれどもなかなか良いノルデスチ観光」について楽しんでもらえれば幸いだ。

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最後に、チエミが撮ったリオの写真。Dos Irmãosの丘は、ファベーラを抜けて上るハイキングコースから上ることができる。現在オリンピックで盛り上がっているところ、やっぱりリオはゴージャスだ。

 

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